いじめ、不登校を経験した独身男性のサクセスストーリー

中学時代のいじめ、不登校から学んだこと、立ち直るまでの道のりやきっかけ~今現在について~未来について、読んでいただいた方の人生に少しでもお役に立てれば幸いです。

第二の地獄学校生活開幕!・・・私はどうなってしまうのか?

おはこんにちばんわ。

すべての時間を過ごす皆さんにご挨拶を。

 

最近、ありがたいことに仕事が忙しく、日々、充実しています。そのため、久々のブログなってしまいました。

 

※訂正

前回のブログで、次回の予告として【NEXT STAGE 高校受験】となっていましたが、予定を変更して、表題をテーマに書かせていただきます。

 

前回の続き

 

ken05260810ken.hatenablog.com

 

 

中学3年になった私は、相変わらず相談室で一人、自習をしていた。

担任の提案で、国語、数学、社会など移動教室がない教科だけは、後ろのドアから入室して、授業が終わったら同じドアから退室するというルーティンが定着してきていた。

 

そんな日々が続く中、中3になったと同時に、私が使わせてもらっていた相談室の隣が給食室から同学年の別のクラスの教室になってしまったのだ。

 

私の第二の地獄学校生活は、ここから始まるのである。

 

その地獄というのは、授業が終わってからの“休憩時間”である。

 

休憩時間になると、隣のクラス、特に男子が、面白半分で様々なやり取りを展開していく。

 

生徒A「なあ、この教室に誰かいるのかな?」

生徒B「もうやめろよ」

 

生徒C「まだいるんだろ」

生徒D「知らねえよ」

 

時には、相談室の壁をドンッ!ドンッ!ドンッ!と意図的に叩かれることがしばしばあった。

その音が鳴るたびに、私は驚き、心臓が「ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ」と鼓動が速くなる。

 

そして、私はついに、授業が終わるチャイムが鳴ると同時、“両耳を塞ぐ”という行動を無意識に取っていた。なんとか精神状態を保つために取った無意識な行動だったのだろう。気付いたときには耳を塞いでいたのだ。

 

以前は、担任や学年主任などが時々、相談室を訪れて、「元気か?」と来てくれていたが、このころになると、先生たちも生徒の受験指導などで忙しくなっていたのか、ぱったり来なくなった。

 

学校では日々、孤独と戦っていたのか、それとも学校の生徒と戦っていたのか、それは当事者の私だからこそわからなかった。今でもその答えは出ていない。

 

 

ある日、担任が久々に相談室に来てくれた。

担任:「近々、合唱コンクールに出るから、一度でいいから一緒に練習してみない?」

つまり、教室でみんなと合唱の練習をしようという提案だった。

担任は音楽の先生だったので、一生懸命だったのだろう。

 

私は渋々、教室に行ってみた。

私は教室に入ると、全クラスメートが私のほうを見ていた。

担任の声掛けで合唱の練習がパートごとに始まった。

私は、担任の誘導で低い声のパートに入った。

 

そこには、“あの人”がいた。

 

しかし、私はその場から逃げなかった。

一生懸命、震える足に力を入れごまかしていた。

 

他の生徒は、これまで何度も練習していたが、私は初めてだったので、なんの曲なのかわからないまま、その場にただ立っているだけだった。

 

その時間が数分間続いた。

 

すると、担任が「ちょっと、どうして誰も〇〇くんに教えようとしないの?」

「〇〇くん、頑張って参加してくれているんでしょ?」

 

なんか、自分が惨めになってきた。

私は、それまで力を加えていた足に力が入らなくなり、急に足が震え始めた。

 

それの様子を見た複数の生徒が、失笑をした。

 

私の中で、それまで張っていた糸のようなものが切れたように、それまで我慢していたものがいっきに涙として放出された。

 

そして、私は教室から飛び出したのである。

その後の移動教室以外の授業を教室で受けることを拒んだ。

 

 

日が経ち、寒くなった時期に、担任が相談室に来たのだ。

 

担任:「〇〇くん、〇〇〇〇さんって知っている?」

私:「名前は聞いたことがあります」

担任:「その人が講演で、学校に来るんだけど、参加してみない?」

 

その人っていうのは、さまざまなドラマに出ている、今でも現役の元〇〇子クラブのメンバーの女優であった。世代でない私でも名前くらい知っていた。

 

このときも担任に説得され、渋々参加することになった。

 

講演会は体育館で行われた。

 

生で女優さんを見るのが初めてだった私は、乗り気じゃなかったが、楽しかった。

 

参加してよかったと思い始めたのも束の間・・・。

 

楽しんでいる私は、それほど遠くない席から強い視線を感じた。

 

その視線に目を向けると、そこには“あの人たち”の同じサッカー部のメンバーの一人が、私のほうを見て、睨んだり、中指を立ててきたのだ。

 

この時、私はこう悟った。

 

あっ楽しんじゃいけないんだ

 

 

to be continued...

 

【次回の予告】

修学旅行が迫っている・・・はたして行くのか?

 

 

★今日の3日坊主男の言葉★

『認知』という言葉を聞いたことはありますでしょうか?

認知とは、簡単に言うと、物事の捉え方のクセです。

 

例えば、街中で、太っている人が一生懸命、ランニングしているとします。

その様子を見た人がたくさん、います。さて、全員が同じ捉え方をするでしょうか?答えはNOです。

“頑張っているなあ”

“お腹すげえ揺れているなあ”

“無駄だよ”

“続かないよ”

事象現象の捉え方は人それぞれで、捉え方にはあるパターン、ある特性(クセ)があり、それには個人差があります。

 

以前、メタ認知という研修に参加したとき、講師の方がこんなことを言っていました。

「いじめを受けた人の認知にはクセがあり、いじめ被害者は、物事の評価を早く下す傾向が強いです」

つまり、いじめ被害者は、「どうせ、こうなんでしょ」と結果を待たずに、評価を主観的に、かつ早急に決断してしまう傾向にあるとのこと。

 

私の体験から言うと、たしかに物の捉え方は、近いものがあります。

結果を待たずに、どうせこうでしょ?こうなるのはわかるよ!などと、ネガティブな結果になるとなんの根拠もなく、主観的に決断してしまうのです。

こうした捉え方は、けっこう昔にありました。

いじめを受けると、自分はなにもできない、自分はいらない存在なんだ、なんの役にも立っていない、と捉えていました。端から見たら、役に立っているよ!と評価されても、それは他人の意見で、認知のクセというものはそう簡単に修正することはできません。長期的に専門的なトレーニングを受けることが大切なのです。