体験したこと②
おはこんにちばんわ。
すべての時間を過ごす皆さんにご挨拶を。
前回の続き
ep3.心理的に拘束された給食
学校といえば、給食がつきものですよね。
私はどこで食べていたのか?
学校から提供された教室で一人で食べていました。私自らそれを選択しました。当然といえば当然だと思います。なぜなら、恐怖対象のクラスで食べることは最大級のストレスフルだったからです。
では、私がいる教室にだれが給食をもってきてくれていたのか?その辺のやり取りを見ていきましょう!
最初は、担任が持ってきてくれていました。
それが日にちが経つにつれて、他の先生・・・クラスメートの女子・・・クラスメートの男子・・・。
私としては、この時点で給食の時間が窮屈に感じ始めていました。
クラスメートの人たちと顔を合わせることすらきつかったんです。
今、振り返ると、給食を持ってきてくれた先生やクラスメートには感謝しかありません。ただ、当時の私は自分のこと、近い将来のこと、そして今をどうするかを考えることでいっぱいいっぱいでした。
そして、ある日。
ついに来てしまったのです。
“あの人たち”が・・・。
私はビックリしました。
給食を持ってきたことにビックリしたのではありません。
“あの人たち”の首謀者(→首謀者とは私がそう認知している人です。実際はどうだったかは闇の中です)が、私の給食を持ってきたのです。
“あの人”は、“あの人たち”とは違ったグループに属していたクラスメートと二人で持ってきたのです。
私がビックリしたのは、“あの人”が笑顔で私の名前を呼んで、給食を持ってきたことです。
その笑顔が、今後の私の数年間を苦しめることになるのです。
その次の日も「キーンコーンカーンコーン♬」と給食の時間が来ました。
私の頭を、こんな予感が過ぎりました。
“あっ!今日も来る!”
私は、不安と恐怖に襲われ、会いたくないと必死で、どうしようか考えました。
焦っていた私は、気づいたら教室の片隅にあった掃除用具にいました。
「ガラガラガラ」
(あっ!誰か入ってきた)
???:「あれ?いないぞ」
???:「ほんとだ」
(ん?聞いたことある声だな)
???:「そこ置いといたら」
???:「そうだな」
(“あの人たち”だ)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ドンッ・・・・・・?????
「ガラガラガラ」
(行ったか?)
掃除用具から出たときには汗がダラダラでした。
机の上の給食を見てみると、メニューのシチューがこぼれていました。
今の俺:「(やることが)子どもかっ(笑)」
その数日後には、担任からこんな提案がありました。
担任:「たまにはクラスで食べてみない?」
私:「ん~」
担任:「ダメだったらまた元の教室で食べていいから」
私:「わかりました」
私のこの選択もその後の私の数年間を苦しめることとなります。
当時の自分として、教室に入ること自体、ストレスフルでした。教室に向かう階段、廊下が“地獄道”かのようでした。
「ドクッドクッドクッ・・・」私の心臓は鳴りやむことはありませんでした。
私が恐る恐る教室に入ると、“嵐の前の静けさ”のように、
それまでは、廊下から声が聞こえていたが、私が入ったとたん一瞬で
シーーーーーーーーーン。
担任:「自分の席に座っていいよ」
私:「はい」
全クラスメート:「いただきます」
私の精神状態は、言葉では表わせられないものでした。
なぜなら、“あの人”が私と同じ班だったからです。
私の学校は、班ごとに机を向かい合わせにして、向かい合って食べるのです。
当然、私は確認しようがない複数の視線を感じながら給食を食べていました。
いや、食べていたというよりは、なにか得体の知らない物体を口に入れ、胃袋に全部入れることを目標にして、いち早くこの教室から脱出することしか考えていませんでした。
向かい合って食べるのですから、私の向かいにいた女子には、睨まれるし、斜め向かいには“あの人”がこちらをニヤニヤと笑みを浮かべながら見ていました。
その時、私は察しました。
“あっ、俺には味方は一人もいない・・・”
to be continued...
【次回の予告】
NEXT STAGE 高校受験
★今日の3日坊主男の言葉★
※本日は、テーマは決めず、私が書きたいことをダラダラと書きます。ご了承ください。
いじめとは、かなり複雑な現象です。人間の様々な感情、イメージ、認知(物事の捉え方)、価値観、家庭環境、親子関係、家族関係、学校関係(教師やクラスメートとの関係性)etc...
これらが複雑に関連し、いじめは発生すると私は考える。
また、(私が知る限りでは)いじめには被害者、加害者、傍観者、観衆という立場が発生する。
これらの立ち位置は容易に入れ替わることが推測できる。
いじめ加害者、傍観者、観衆たちは、明日、急に被害者側に立つことだってある。その一因として、被害者側の見方をすることが考えられる。
人間の感情というのは我々、人間が思っているよりも遥かに複雑で、厄介なものだ。
これまで何度、感情という存在がうっとうしく思っただろう。
それと同時に感情(あえて“感情さん”と擬人化さしてみよう)に対して、感謝もしている。
そんな私だからこそ、子どもの感情というものを大切にしている。
事業所に通っている子どもたちは、子ども同士でケンカ(ケンカと認知しているのは我々大人だけかもしれない。もしかしたら、子どもは意地悪されていると認知してるかもしれない)していたら・・・
子どもがどのような性格なのか、行動パターンはどんなものか(日頃から友だちに攻撃的か、叩かれてもいつも我慢しているか、ごまかしているか等)などの情報を総合的に判断し、どのようなサポートがbetterかを考えている。
なぜ、bestじゃないのか?
これには私なりの考えがある。
その言葉の中には、子ども自身に考えてもらうのりしろの部分が含まれている。つまり、何事にも答えを出さずに、答えを導くヒントを提供する。ケースによっては、あえてその場で解決させないこともある。
この考え方は普遍的かもしれないが、私が小さい頃から勉強させてもらっている学問に関係していると捉えています。
その学問に出会わせていただいた天国のじいちゃん、実家のおばあちゃん、父、母に感謝です。
ありがとうございます。